「草津町 年表」




草津町の歴史
西暦邦暦など事 柄参照
625
現 草津八幡宮(宇佐津八幡宮) 勧請。(中世には力箭(りきや)八幡宮と称した)
・社殿は現在の場所ではなく、海浜にあったと伝えられている。
・厳島神社とほぼ時を同じくして多紀理姫命(たぎりひめのみこと)を海路の守護神として祀ったのが創祀といわれる。
・草津の旧名を「軍津浦(いくさつうら)」という伝承もある。
・草津、古江の地は 神武(じんむ)天皇、神功(じんぐう)皇后の伝説を残している
*5
625
推古33年
久曾津地方を厳島神領とした。

835
承和2年
鈴ヶ峰観音寺 前身創立。

933
承平3年
荒神社再建。

960
天徳4年
鷺森(さぎもり)神社 勧請(かんじょう)
*3,*10
1288
正応元年
住吉神社、龍宮神社創建。
*10
1372
建徳3年秋
幸福稲荷神社 勧請。村内に火事が多発、建立してお祈りしたところ新たな火事が発生しなかった。(所在地:草津本町)
*6
1394
応永年間 1394年〜1434年
海蔵寺(かいぞうじ) 創建
*4
1395
応永2年
現 草津八幡宮に大般若経6百巻並びに経函2櫃奉納(市指定文化財)
*5
1448
文安4年
慈光寺前身 莵山へ創建。

1456
室町時代
武田信賢が草津城を攻め落とし改築して城の形が整ったと言われている。
(その後、新里式部小輔(大内氏(おおうち)) -> 羽仁有繁(陶氏(すえ)) -> 児玉周防守就方(毛利氏(もうり)) -> 児玉就英 -> 児玉元昌 と城主が代わった。)
*2
1495
明応2年
豊野神社創建。
*10
1504
/1505
永世元年/2年
胡子神社創建。勧請。
,*10
1531
天文元年
新里式部小輔 草津城主となる
*10
1554
天文23年
草津城主 羽仁越前(有繁)を毛利家臣 福原就房が破り、草津城将となる。

1554
1554年〜1600年
児玉氏草津城主時代 幸福稲荷神社は吉和屋(草津の長者)の所有となった
*6
1555
弘治元年
海蔵寺 厳島合戦で、毛利方の陣所に用いられる。
*4
1566
永禄10年
教専寺 創立。
*10
1566
永禄10年
西楽寺一世 松蔭坊永頓 松蔭坊屋敷に来住した。

1576
天正4年
草津湊より兵糧米3000石を石山本願寺城(大坂)へ送る。
その時、親鸞上人から「梶掛の御名号」を贈られた(もと草津城主の子孫、児玉家蔵(東京))

1586
天正14年
草津城主 児玉周防守就方 74才で死亡 -> その子 就英が城主となる。
*2
1588
天正16年7月
毛利輝元公上京で海蔵寺に宿泊し、草津より出航。
*4
1589
天正17年
4月15日 広島城(毛利輝元公) 鍬初め

1592
文禄元年
浄教寺 創立(鈴ヶ峰観音寺を移す)
*10
1592
文禄元年
豊臣秀吉 寄港(文禄の役で九州への途中)

1600

福島正則(広島城主)により草津城の下山陽道に大門をつくり、草津城をこわしたと言われている。
*2
1613
慶長16年
西楽寺 設立 (松蔭坊信了 来村)
*10
1619
元和5年
検地後、草津と田方が一緒となり、草津後田村と呼ばれるようになった

1632
寛永9年
草津が三次藩の領地となった

1635
寛永12年
鰯網漁法が伊予や紀州より伝わった

1652
承応元年
牡蛎灰製造 始まる

1664
寛文4年
佐西郡草津後田村が佐伯郡草津後田村となった。

1672
延宝元年
小西屋五郎八、人工蛎養殖法を始める

1678
延宝6年
三次浅野支藩の御茶屋敷が建てられる。幸福稲荷神社は境内の鎮守
*6
1679
延宝7年
殿新開工事始まる。1680年完成。
*11
1714
正徳4年
鷺森神社 神殿、拝殿再建
*3
1719
享保4年
三次藩の絶藩。草津は広島藩領地となった。

1719
享保4年
三次浅野支藩の御茶屋敷廃止。その後 幸福稲荷神社は村内の信仰が高まる。
*6
1740
元文5年2月
草津八幡宮 神輿3基を新調。

1759
宝暦9年
宝暦の大火、延焼238戸。

1772
安永元年
大野屋という魚問屋ができた。
古地新開(草津本町の一部)で各地漁師が持ち寄る魚を買い取り、問屋を始めた。

1781
天明元年
作兵衛火事、延焼326戸。

1790
寛政2年
大公、延焼309戸。

1810
文化7年
中閣火事(勘兵衛火事とも言う)、延焼270戸。

1811
文化8年
中新開 (現 草津小学校あたり)

1814
文化11年
おたご火事

1817
文化14年
槌田新開 (草津橋より東側,草津東町の一部)
*11
1818

草津蒲鉾 誕生。
包丁で魚肉を取り、塩を加えて錬ったものを竹べらで経木に盛り、炭火で加熱して焼き上げたもの。
 「おれんかまぼこ」と銘付け、商品として市場に出して販売し、残漁の始末をするようになった。
 それまでは、残漁は塩干しか肥料となっていた。
(2006年のノロウィルスの風評被害までは町内に60軒位蒲鉾屋があり、栄えた。)
*11
1820
文政3年
東新地 (草津本町の一部 )
*12
1822
文政5年
本固新開 (旧 草津港あたり,草津浜町の一部 )
*11
1822
文政5年
南新地 (草津南町の一部 )
*12
1823
文政6年
旧草津港完成
文政4年着工。草津町民の力で住吉堤防と四連の波止めを築設。

1839
天保10年
魚問屋7軒が特権商人となった。
大野屋に続き天明6年(1786)頃に井口屋、天明9年(1789)頃に山口屋が出来、3軒は「株」という特権を持って第3者の開業を許さなかった。
しかし、50年後には特権意識が薄れ、資本のあるものは魚問屋を始めることができるようになった。
(明治12年頃には許可制が廃止され、草津中町で賑わっていたそうである。)

1839
天保10年
干鰯屋の組合ができた。

1848
嘉永元年
草津、江波 干潟について海面境界の争いが数年に亘り、その結果役所の調停成立

1859
安政6年
鷺森神社 拝殿再建
*3
1864
元治元年6月
蛤御門(禁門)の変が起き、広島藩の仲裁により幕府と長州の談判が海蔵寺で開かれる。
*4
1866
慶応2年
草津、江波 争いが起こる

1868
明治元年
割庄屋 小泉甚右衛門が庚午新開を発起。干拓して農耕地を増やす目的。
(明治元年から3年間の全国的飢餓が背景か?)役人 竹田頼太郎が申し出。
*1
1870
明治3年
2月7日 庚午新開着工。明治3年は干支(十干二支)が庚午(こうご)にあたる。見聞役 平山靖彦。
水利で己斐川上流の村々の庄屋や観音新開の庄屋の反対があった。
*1
1870
明治3年
鷺森神社 神殿再建
*3
1871
明治4年5月
庚午新開(150町歩,約45万坪,約150万m2) 完成。
小泉甚右衛門が買受け。
後に竹田庄兵衛・桑原儀三郎 持分を小泉家が買受け、大半を所有となる。
予算2万両が4万8、9千両掛かった。これは飢渇衰弱の流民を使役したため。
この為、庚午新開は「おかゆ新開」とも呼ばれた。
*1
1871
明治4年
魚市場ができた。

1873
明治6年
3月9日 海蔵寺内を借り「立基館」(寺小屋)設立(草津小学校の始まり)。
初代校長 頼 元啓
*14
1873
明治6年
古江村田方の一部と草津村の一部を交換した。

1875
明治8年
新地 完成。旧草津港の東と南。(草津浜町の一部)

1878
明治11年
沼田郡庚午新開を佐伯郡草津村に入れた。

1884
明治17年6月
草津小学校 新築(資料には「本町5番新開」とあるが「御番新開」の事か?)
*14
1884
明治17年
国道 廿日市−大竹 完成。

1885
明治18年
明治天皇が山口・広島・岡山を巡られた時に小泉家で休息された。
後にこれを記念して「鳳輦の碑」を建てた。
*8
1886
明治19年
4月1日 「草津簡易小学校」と校名改称
*14
(1887)
明治20年頃
ハワイや米本土に移民が多く、庚午新開は荒地がみられた。
小作人の召集で、明治40以降は荒地が無くなる。

(ハワイ移民求人票には「砂糖きびの栽培と製糖工場勤務」家族同伴、単身の男子、1日10時間、工場は12時間、1ヶ月26日間、3年間の労働義務がある...
それでも渡航期間を延長する人や再渡航を繰り返した人が多くあったということは、国内での労働がそれ以上に過酷だったという事に考えを置かなければならない。)
*1,*9
1888
明治21年
4月1日 「草津4尋常小学校」と校名改称
*14
1889
明治22年
4月1日 市制・町村制 施行。
佐伯郡草津村、庚午新開 -> 草津村
古江村、山田村 -> 吉田村

1890
明治23年
宇品港 完成

1890
明治23年
明山新開 完成(草津浜町の一部)

1894
明治27年
山陽鉄道が広島まで開通

1894
明治27年
昭憲皇太子が宮島に参拝された時に小泉家で休息された。
後にこれも記念して「鳳輦の碑」を建てた。
*8
-1894
〜明治27年
小泉家は庚午新開で、自作経営で甘蔗(さとうきび)を栽培。
砂糖工場を起こすが、収支合わず明治27年廃絶。
*1
1894
明治27年
9月13日 大本営を広島に移す。
(同年8月1日「日清戦争」起こる。翌年4月17日「日清講和条約調印」、4月23日「三国干渉」)
*14
1895
明治28年
鷺森神社 山陽本線敷設に伴い現在地に移転。
*3
1898
明治31年
草津城山は現 JR山陽本線の開通により2分された。

1899
明治32年4月
「佐伯郡草津村立草津尋常小学校」と校名改称
*14
1904
明治37年
草津本町に新しい魚市場ができた。

1904
明治37年
2月10日 「日露戦争」始まる。翌年9月5日「ポーツマス条約調印」、42年8月20日戦勝記念碑除幕式(小学校?)
*14
1909
明治42年
2月1日 草津村 -> 草津町 初代高木町長 (812戸 5809人)

1910
明治43年
5月17日 草津町に大火起こる、全焼42、半焼12。
小学校は大火のため3時間授業
*14
1918
大正7年
11月2〜17日 スペイン風邪のため小学校は臨時休校
*14
1921
大正10年
荒手埋立 宮島電鉄による。
*12
1921
大正10年頃
草津に最初の硬式野球チーム「御幸倶楽部」(全草津の母体)誕生。
*13
1923
大正12年
草津城山は現 広島電鉄 宮島線の開通により3分された。

1923
大正12年
県の水産試験場 草津支場が出来た。

1924
大正13年
草津八幡宮 神輿を作る。(1740年以降幾度も新調や改装が行われた)

1924
大正13年
7月1日 メートル法実施
*14
1926
大正15年
土石流により海蔵寺 本堂半壊。
修復の浄財に感謝するため寄付者名を刻んだ大数珠をつくり、「観音様縁日」に数珠繰りをしている。
*4
1926
昭和元年
水産試験場により牡蠣の「簡易垂下養殖法」が開発され、広島湾一帯で広く行われるようになっていた。
また、「筏式垂下養殖法」も開発された。これは戦後、広島湾内の海面使用制限が解除となった昭和20〜30年代に盛んとなった。


1927
昭和2年
鷺森神社 拝殿 修繕
*3
1929
昭和4年
4月1日 草津町 -> 広島市(広島市と合併)
「広島市立草津尋常小学校」と校名改称
*14
1929
昭和4年
上水道 完成。

1929
昭和4年
草津南町に魚市場が移転した。

1930
昭和5年
軟式野球チーム「全草津」結成。
戦争により、昭和10年頃から選手が兵役に。休止になる。
*13
1931
昭和6年
草津八幡宮 近郷六箇村の氏子により、境内地の造成と共に総ての社殿が再建造営。
*5
1931
昭和6年
9月18日「満州事変」起こる
*14
1932
昭和7年
1月28日「上海事変」起こる、5月15日「5.15事件」起こる
*14
1933
昭和8年
本町(旧称:本町,上町,中町,問屋ノ町)、
東町(旧称:川ベタ, 御番新開, 殿新開, 中新開, 槌田新開)、
南町(旧称:南町, 荒手, 大門, 原が尻, 大蔭, 城山)、
浜町(旧称:浜町, 大星, 本講, 明山新開)、
庚午町(旧称:庚午新開)になる。

1933
昭和8年
7月26日 草津小学校新築(現在地(中新開)へ移転)、11月16日校舎改築落成祝賀式
*14
1934
昭和9年頃
西氏功徳碑(西氏の功績や徳をたたえる碑)を草津町と吉田町の境から草津本町小川邸の西隣に移転。
西氏は代々医者。慈善家、「草津牡蠣養殖」や「牡蠣舟営業」の育ての親とも言われている。
*7
1935
昭和10年
7月1日草津青年学校設立(同年4月1日 青年学校令公布)
*14
1939
昭和14年
太田川改修第1回目漁業補償金支払い協定が成立。
福島川と山手川を合流、移設して作った太田川放水路工事により、大量の水と泥土砂が漁場に流れ、大きな影響を与えていた。
(これや後の埋立事業により、草津の漁業環境は衰退方向へ大きく変ることとなる。)

1939
昭和14年
9月3日「第2次世界大戦」起こる
*14
1941
昭和16年
4月1日 「広島市立草津国民学校」と校名改称(国民学校令施行)
*14
1942
昭和17年
1月15日 学校付近火災 職員児童必死に消火につとめ、類焼を免れる
*14
1942
昭和17年
大津波。庚午新開堤防を破る。流出38戸。

1942
昭和17年
観光道路(国道2号 宮島街道)開通。

1942
昭和17年
古川埋立(現 広島電鉄 宮島線より山側 草津南〜井口駅の間)
*12
1945
昭和20年
5月12日 第1回学童疎開実施 児童109名 引率教員6名で、世羅郡小国村・吉川村・上出村に出発。
7月26 日第2回学童疎開実施 児童82名 引率教員6名
7月26 ポツダム宣言発表
*14
1945
昭和20年
8月6日 8:15 原子爆弾 炸裂
小網町付近の建物疎開に出動していた高等科の167人は観音町土手付近で全員被爆し、約71人の生徒が重軽傷を負った。他に引率外の2人が即死した。
小学校校舎(爆心地から約4.07km)は小破。被爆者収容所として開放された。推定3000人以上の患者が収容された。9月末までの約2ヶ月間に校庭で207体の火葬を行った。(広島原爆戦災誌第4巻P271の情報)
*14
1945
昭和20年
8月 7日 小学校に市罹災者救護所開設(7日 治療者約600名)
8月 8日 ソ連 対日宣戦布告
8月 9日 11:02 長崎で原子爆弾 炸裂
8月10日 午後2時 昭和天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断。(8月14日という情報もある)
8月15日 正午 ラジオで天皇「戦争終結」の詔書を放送(玉音放送)
8月15日 小学校の市救護所を廃し、県救護所設置
8月18日 満州国解消
8月18日 ソ連軍 千島列島へ侵攻
9月 2日 ミズーリ号上で降伏文書調印
9月 2日 ソ連軍 国後島占領
9月 3日 ソ連軍 歯舞群島占領
9月14日 集団疎開児童帰校式
9月26日 小学校で草津連合町内会の合同葬
10月   小学校の県救護所を広島県病院としての指定を受ける
12月20日 小学校 父兄会
12月   小学校 児童調査
*14,他
1945
昭和20年
御幸川氾濫、田方津波。

1946
昭和21年
1月26日 小学校 二部授業始まる
3月26日 初等科58回、高等科47回の修了書授与式の挙行
5月15日 文部省 男女共学実施指示
11月3日 日本国憲法公布
*14
1947
昭和22年
4月 1日 広島市立草津小学校と校名改称
4月 1日 広島市立第七中学校発足(現 庚午中学校創立,草津小学校校舎 借用)
3月22日 小学校 高等科48回の修了書授与式の挙行(高等科の最終授与)
5月 3日 日本国憲法施行
7月15日 小学校 8月25日まで食料休暇始まる
*14
1947
昭和22年8月
「草津壮年連盟」結成
町内の改善(暴力追放,魚市場の建設,電話の架設)、野球チーム「全草津」の復興 などに貢献。
その後のスポーツ振興にも貢献。
*13
1947
昭和22年
11月2日 第1回 町民運動会(第1回草津町民体育大会) 開催
賞品の庚午で採れた大根は喜ばれた。
*13,*14
1949
昭和24年
9月16日 庚午中学校 現在地に新築移転(校名変更 第7中学校->庚午中学校)

1949
昭和24年
旧港埋立組合地を作る

1950
昭和25年
6月25日 「朝鮮戦争」起こる
12月1日 「広島市教育委員会」発足
*14
1951
昭和26年
5月17日 小学校「薪小屋」火災のため消失
*14
1954
昭和29年5月
太田川改修第二次漁業補償協定成立。

1958
昭和33年
4月26日 小学校 「広島復興博覧会」見学
*14
1959
昭和34年3月
「太田川改修反対既成同盟」解散
昭和27年頃結成。魚市場設置問題と共に交渉した。

1960
昭和35年
7月9日 草津小学校 プール落成
10月1日 草津小学校図書館完成(木造平屋建て)
*14
1964
昭和39年
10月10日 第18回 東京オリンピック大会始まる
*14
1966
昭和41年
12月21日 陸橋竣工式(小学校講堂)
*14
1968
昭和43年
5月5日 「県立広島交通公園」開園
10月24日 「西広島バイパス」起工式
*14
1969
昭和44年
3月31日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第1期工事 8教室 延1013平方m
*14
1970
昭和45年
2月5日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第2期工事 8教室 延713平方m
*14
1970
昭和45年
庚午小学校創立(草津・古田小学校分離)

1971
昭和46年
広島市西部開発事業 埋立着工。約10年間かけて完成
昭和39年に計画案->昭和57年完成。946億円、328万平方mを造成。
過去最大の埋立で大きな漁場を喪失、草津漁業は衰退することとなった。その保障問題の解決には、大変な労力が払われた(簡単には書けないですね)。

1971
昭和46年
庚午新開百年祭にともない豊野神社を庚午神社と改名

1971
昭和46年
4月1日 草津小学校 新校舎 鉄筋教室 第3期工事 12教室 延1069.2平方m
*14
1973
昭和48年
3月9日 草津小学校 創立100周年
*14
1976
昭和51年
5月10日 草津公民館 開館(庚午中学校エリア)

1980
昭和55年
4月1日 広島市 -> 広島市西区

1982
昭和57年
鷺森神社 拝殿 修繕。原爆被害と老朽化による。
*3
1982
昭和57年
「新草津音頭」草津小学校創立110周年を記念して、草津小学校教育振興会によって製作された。
草津小学校運動会、町民運動会で、音頭に合わせて踊られる。

1998
平成10年
4月末 「大石餅」閉店。

江戸時代の文政年間(1818〜1830)に播磨屋惣衛門(はりまやそうえもん)とお国が始めたといわれる。
草津の西の海岸ばたに大石があり、その石のそばの茶店で餅を作り「大石餅」として売っていた。
(西国街道は大門のあった所を通り、西の大石の所へ出ていた。この「大石餅」のある茶屋あたりからの西のながめは格別であったという。)
大石餅は「オイシイ餅」にかかり、三代目の卯助になって、材料をよく吟味し一生懸命つくったので、品質佳良、風味高尚として広く知れわたり草津の名物として有名になった。
(今田三哲氏 草津歴史講座第2章より)

6月21日に「草津のまちを愛する会」主催によるイベントが行われた。
その後「草津まちづくりの会」が発足し、毎年9月に行われる「草津まちオープンミュージアム」へ活動が継承となっている。

2003
平成15年
「草津八幡宮神輿保存会」結成。

3基あった神輿は昭和40年代に1基破損。平成に入り事故が発生し、警察の指導に従い一時行事が中止となっていました。
御神霊をお乗せした神輿は草津町内鷺森神社、住吉神社、胡子神社、龍宮神社を巡行します。多くの人に担がれ、「草津祭音頭」を歌い継ぎながら進みます。
この巡行では神輿同士をぶつけたり、競り合わせたり、組み合わせたりします。「草津かんか祭」「けんか神輿」として広く知られています。
毎年9月最終日曜日

2003
平成15年
9月15日 草津小学校「パパクルー」結成

俗に言う”おやじの会”の類である。
主な活動は、 昔の遊びを子供達に伝える「草津六虫大会」年2回、「草津小学校校庭側溝の清掃作業」8月、「夜間パトロール」年7回位、「草津・庚午南地区町民大運動会バザー」など そして「親睦会」で、 新町など新しくこの地に入った親と古くからの親との交流の場にもなっている。
モットーは”「出来るときに!出来ることを!出来るだけ!」,「家族」「仕事」を優先する”で、無理をしない活動を目指している。





2015
平成27年
第69回 町民運動会 西区スポーツセンターにて

草津小学校の耐震化工事により、小学校の運動場が使用できないため「西区スポーツセンター」で開催。(草津東町が優勝に返り咲く)






*1「かくれた広島の小話 第2巻」住田恵保 著 の情報より。
*2くさつまちづくりの会 「草津城址と児玉周防守就方の墓」説明プレートの情報より
*3鷺森神社内 碑の情報より。
*4くさつまちづくりの会 「久遠山 海蔵寺の略縁起」説明プレートの情報より。
*5草津八幡宮内 碑の情報より。
*6くさつまちづくりの会 「幸福稲荷神社 御由緒」説明プレートの情報より。
*7くさつまちづくりの会 「西氏功徳碑」説明プレートの情報より。
*8くさつまちづくりの会 「小泉家と記念碑」説明プレートの情報より。
*9「ハワイ移民史 第1章 その源流を探る」 仁保島村社会科研究会 著 の情報より。
*10草津町役場 大正13年(1924)2月1日発行 「草津案内」の情報より。
*11廣島郷土史研究会 発行 「廣島軍浦輪物語」の情報より。
*12たくみ出版 編集 昭和52年3月3日発行 「西部開発と漁民の思い出」の情報より。
*13中国新聞(1981.10.13〜10.28)「草津の軟式野球」全14回 記事情報より。
*14広島市立草津小学校創立百年誌の情報より。


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